会社で、仕事の合間にA(09/07の日記参照)とメールのやり取りを。前も書いたように、今まで付き合った人で、未だに友達であり続けている唯一の人である。A曰く、俺は「一番の男友達であり、一番わかってくれている」人だと。そういってもらえるほど、俺がAを「わかっている」のか、はなはだ疑問ではある。しかし、俺たちの中学の3年間って、その後の人生のあり方…なんていうとちょっと大げさかもしれないが、とにかく人格形成というか、ものの考え方について影響の大きかった3年間だと思う。特に「俺たち」と括らなくても多くの人はそうだと思うのだが。特に担任に恵まれ、多大な影響を受けたことは間違いない。今思えばクサクサな、青春丸出しなクラスであった。そんな思春期の精神的成長期に、付き合ってたという意味では「わかってる」のかも知れないとは思うけど。大人になれば大人なりの考え方が必要になって、ずるくなっていったりして。「あの頃とは違う」なんて思ったりするんだけど、実は根っこまでほじくりかえして見たら、あの頃の自分がいて。Aとは長いこと会っていないし、声も聞いていないので、変わってしまった枝葉の部分についてはわからない。少なくともメールのやりとりをする限りでは、相変わらずだなぁと思うのだが。根っこの部分を知っている(知られている?)相手であるが故の信頼関係というのが、お互いに存在しているような気がする。
その信頼関係は、同性間の親友同士で発生する友情と呼ばれるものである。しかし考えてみれば、異性間の友情と同性間の友情はどこか違っているものであるように思える。俺は男であるので男として書くが、男が男として認める存在である人との間に発生するのが、同性間の友情であると考える。これが異性となると、男が女として認める存在である人との間に発生するものになる。男が女として認める存在、というのはすなわち恋愛の対象なのではなかろうか。だが、恋愛の対象であるとすると、そこに友情なるものが存在し得るのか、疑問に思える。ということは、かつて恋愛の対象だった人、もしくはこれから恋愛感情に発展する可能性の高い人との間で存在する感情なのだろうか。Aには少なからず、友情と呼ぶに値する感情を抱いているが、これはかつての恋愛対象であったからこそなのかも知れない。「異性間で純粋な友情なんか存在しない。友情という名の下に、愛情を理性で抑えているだけだ」なんて意見も聞いたことがある。なるほどそれは言えるかも、とも思う。異性間の愛情が、友情の延長線上にあるとは思うが、同時に愛情の延長線上には友情があるような気がしてならない。ただ、愛情の向こうにある友情の手前には、結構高い壁があるように思う。きっと俺がAに対して「愛情の向こう側の友情」という感情を持てるのは、精神的成長期に付き合っていて、お互いの「根っこ」を知っているから、そしてSEXしてないから、ではないだろうか。あくまで俺論ではあるが、SEXにはどうしても所有欲というか独占欲というかがつきまとう。もっと軽い気持ちでLet’s Free SEXとかいう人ももちろんいるのだろうが。SEXを通してよりわかり合えることもあるし、しなければわからない何かもある。しかし、それと同時に失った何かも確実にある。何かって何よ?と言われても、上手く言葉にできないのだが。
なんてことを仕事中に小一時間考えて、気分転換。っていうかなにも、このクソ忙しいときに考えることもなかろうとは思うのだが。あれだ、試験の前日に勉強しなきゃいけないのに、思わず漫画を一巻から読み直してしまう感覚に似ていますな。突然、机の中のものを全部引っ張り出して整理始めたり。暇なときにはやらないのにね。まぁそれはそれとして…残業代が出たら何を買おうかと妄想して気を紛らわすが、一緒に帰ったK氏(同い年の先輩)が電車の中でぼそりと「来週は休めるといいね…」と呟いた。とりあえず山は20日だし、なんとかなるんじゃないスか?とか楽観論を展開してみるも「でもほら、20日までに終わるとは限らないし…」…..痛い、痛いようママン。とりあえず家に帰り、風呂に浸かりながら大黒摩季を聴いてポジティブになろうと試みる。心なしか元気になれた。
そういえば昨日、ハムスター用のカゴが送られてきた。なんか小道具が一杯入っていて、どう組み立てればいいのかよくわからないので、とりあえず適当に組む。これでいつでもハムを迎え入れることができるのだが、買いに行く時間がない。なんだか空っぽのカゴを見つめていると、妙に切なさアンプのスイッチが入るので部屋の隅っこに隠しておいた。